デンマーク人の幸せの秘訣① 1人で頑張らなくていい。見えない「つながり」に目を向ければもっと強くなれる

      2018/05/20

こんにちは、ERIです。

あっという間に3ヶ月半の留学が終了し、先週日本に戻ってきました。
日本はまるで熱帯のように暑いですね…。

週2ペースでブログ記事を投稿するつもりでデンマークへ発ったものの、案外時間がなく、留学中の学びや気づきを満足に更新できずにきてしまったので、これから随時記録を挙げていきたいと思っています。

 

デンマーク人はギバー。私は?

さて、今更ながら、最近アダム・グラント著の『GIVE&TAKE』を読んでいます。
購入したのは大分前なのですが、その時はアダム・グラントの名と話題作というところに惹かれて何となく手に取っただけで、ほとんど読み進めずに本棚にしまい込んでしまいました。

今回あらためてこの本を開いてみようと思ったのは、デンマークで出会い、自分に影響を与えてくれた人たちのことを振り返る中で、彼らが共通してギバー(与える人)であることに気付いたためです。

この本の中には、
ギバー:人に惜しみなく与える人
マッチャー:損得のバランスを考える人
テイカー:真っ先に自分の利益を優先させる人
という人間を分類する3タイプが登場します。

デンマークに行く前の私は、よく言ってもマッチャーで、認めたくはないもののかなりテイカー寄りだったように思います。
相手がくれた分返し、自分が返せる分をもらうというマッチャー的な指針のもと行動しながらも、とにかく「(短期スパンで見て)損をしたくない」というテイカー的な気持ちが強くありました

見ず知らずの人や今後付き合いがなさそうな相手に自ら親切をすることは稀でしたし、家族や親しい友人に対しても、マッチャー的な損得勘定を持って接しているところがあったように思います。

「愛を配る」ことを手放すまで

こんな風に書くとすごくドライな人のように思われてしまいそうですが、実は学生時代~社会人数年目にかけての私のモットーは「愛を配る」というものでした。

「愛を配る」の詳しい説明は今回は割愛しますが、「愛」「配る」というワードからそこはかとなく伝わる通り、「見返りを求めずに」「多くの人に与える」というギバー的な要素が含まれた表現です。

まだ読み進めている最中で、『GIVE&TAKE』の内容について理解が浅い部分もありますが、元来人間はギバーの性質を持っているものの、それが時間的制約や勝ち負けを問われる社会で生きる中で隠れ、マッチャーやテイカーとしての側面が強まる人が増えてくるようです。

私自身、社会人として業務に追われ、成果を問われ続ける中で、徐々に「自分に何も与えてくれない相手に与えるなんて時間と労力の無駄じゃないか?」と考えるようになったことを覚えています。

そんな思考を身に付けてから、自分に短期的なベネフィット(知的好奇心の刺激なども含む)をもたらしてくれない人間関係は自分にとって取るに足りないものになり、中でも温かくてウェットな人間関係に煩わしさを感じるようになっていきました

人間関係は煩わしいもの?

私ほどではなかったとしても、「必要以上の人との関わりは煩わしい」と感じている方は多くいらっしゃるのではないでしょうか?

日本では、例えば道に迷ったり、何か尋ねたいことがあったとしても、見知らぬ人に頼るのは非常に勇気がいります。
勇気を出して声をかけたとしても、「分かりません」と立ち去られたり、「今時間がないので…」と言って対応してもらえないことも少なくないように思います。
外国人が日本人に同じことを尋ねた場合でも、”I don’t speak English…”と言って断れてしまうケースがよくあると聞きます。

いかに人(特に見知らぬ人)に迷惑をかけないか、かけられないかが大事な指標にされているように思います。

しかし、日本ではその指標に基づいて生活していた私も、初めて生活するデンマークでは、人に頼らずに生きることなど到底できませんでした。

「人に迷惑をかけない」ことを諦めた日

人を頼る場面はデンマーク到着早々やってきました。
目的地まで向かうために乗るべき電車の情報は把握していたのですが、それが実際にどの電車なのか判断がつかなかったのです。

ホームに入ってきた電車が乗るべきものなのかどうか分からず、駅員も見当たらず、取りうる選択肢は同じホームで待つ人に声をかけることのみでした。
そこで、その電車に乗ろうと待っていた人に英語で話しかけたところ、デンマーク語で返事が返ってきました。
どうやら彼女もその地域出身ではなく、知識がなかったようです。
「そろそろ断られるんだろうな…」と諦め半分でスマホの画面を見せ、目の前の電車と画面に記載された電車を交互に指差してなんとかコミュニケーションをとろうとしたところ、彼女が近くに立っていた見知らぬデンマーク人を呼びに行って一緒に画面をのぞき込み、問題を解決してくれたのです。

自分が乗りたい電車がすでにホームに入ってきており、かつ自分も私を助けられるだけの知識がない状態で、彼女一人でできる以上の対応をしてくれたことがとても印象的でした。

また、ある街でバス乗り場が見付からず、唯一開いていた地元の小さな薬局に入って尋ねたところ、「私もバスは使わないからあまり詳しくないんだけど」と言いながら仕事の手を止め、一緒になって道に出て探し回ってくれた方もいました。

同じ学校のエストニア人のクラスメイトが、小銭を持っておらずバスの乗車を断られた自分を見て、後ろの乗客が代わりに運賃約400円を払ってくれたエピソードを感動しながら共有してくれたこともありました。

デンマークでは何度も見知らぬ人を頼る経験をしましたが、「分からない」「時間がない」と言って立ち去る人はごく少数で、「自分には分からない。でも○○してみたら分かるのでは?」と解決策に近付くためのアドバイスをくれるなど、「自分に直接解決はできないけれど、何かしら自分が相手のためにできることをしてあげよう」という気持ちを感じる対応が大半でした。

「見返りはいらない。自分が与えたいから与えるだけ」

見知らぬ相手にも親切となれば疑うまでもないかも知れませんが、私の通っていたフォルケホイスコーレのクラスメイトたちは「与えることの天才」揃いでした。

中でも印象に残っている2人のクラスメイトとの出来事を紹介します。

まずは、最も親しくしていた40代のデンマーク人のクラスメイトCとのエピソードです。

3月末のイースター休暇に海外旅行をした際、その子に小さなスーツケースを借りて出かけたのですが、航空会社の扱いが荒かったのか、2つしかないキャスターの一つがなくなった状態で返ってきました。
彼女が、同じ種類のスーツケースを大小ペアで大事に揃えているのを知っていたので、本当に申し訳なく、「弁償するから」と言って謝罪したのですが、その子の返事は「弁償なんていらないよ!スーツケースは消耗品だし、私が壊していた可能性もある。全然気にしないで」というものでした。

その後、日本に帰国する際に追加のスーツケースが必要なことに気付き、あらためてお詫びする意味も込めて、壊してしまったスーツケースを買い取らせてもらえないか尋ねたのですが、彼女の返事は「OK!お金はいらないから今度ビールでもおごって」というものでした。
結局ビールを飲む機会は訪れなかったため、その子に貸していたお金を返却不要ということにしようと思って提案したのですが、私が現金を切らしていることを気にし、なんと彼女は貸していた以上の金額を手渡してきたのです。

驚いて「こんなの申し訳なくて受け取れない」と断ろうとしたのですが、彼女は「でもERI現金ないんでしょ?私があげたいと思ってそうしただけだから、申し訳ないなんて思わずに受け取ってよ」と言ってきたのです。

ちなみに、彼女は特別裕福なわけではなく、どちらかというと節約を心がけながら生活しているような人でした。


次に紹介したいのは、起業家で海外を飛び回りながらバリバリ仕事をする50代のデンマーク人Jとのエピソードです。

彼とイースター休暇の話をしていた際、早朝のフライトなのでコペンハーゲン前夜に空港に到着して仮眠をとるつもりだと言ったのを気にし、日程と時間を尋ねてきました。
それを聞いて少し考えた上で、「自分もその日の日中にコペンハーゲンで用事があるから、学校から空港まで送っていくよ。午前3時にここを出れば6時のフライトに間に合うから、そうしよう」と言い出したのです。

私のためにそんな早朝に起きてもらうわけには行かないと思って断りかけたのですが、「早朝にコペンハーゲンに着けば、自分も予定の時間までに色々片付けられるしちょうどいい」と笑顔で告げてきました。

また、帰国前にも彼の家に泊めてもらったのですが、空港まで送ってくれたのはもちろん、私が準備をしている間においしい朝食を用意してくれたり、道中での腹の足しにと言ってシリアルバーやフルーツの入ったおやつ袋を渡してくれたり、自分の予想をはるかに超えた対応をしてくれました。

彼にはお金を払わせてほしいと頼んだのですが、「自分がしたいからそうしただけで、お金なんか必要ないよ。むしろ役に立てて嬉しいし、一緒に過ごせて楽しかった。もし将来日本に遊びに行くことがあれば、家に泊めてよ」と言われて終了しました。

この2つのエピソードは突出して印象的だったものなのですが、クラスメイトたちには、この他にも数え切れないほどの親切な対応をしてもらいました。

「信頼」と「信用」

見知らぬ人・クラスメイトたちとのこうした関わり合いを通じて感じたのは、デンマークには日本的な「いかに人に迷惑をかけないか、かけられないか」ではなく、逆に「自分も人に助けてもらうことがある。だから自分が助けられる時にはできる限りの親切をしよう」或いは純粋に「人の役に立てて嬉しい」という気持ちを持っている人が多くいるということです。

この違いを生んでいるのは何なのでしょうか?

あくまで私見ですが、デンマーク社会の根底を流れる「信頼」が大きな役割を果たしているように思います。

日本にいても似たような感覚を持つ場面は多くありますが、それは心を開いた無条件の「信頼」というより、過去の実績に基づく条件付きの「信用」に近いような印象があります。

飲食店でバッグを置いたまま席を立っても盗まれることはまずない。
道で財布を落としても交番に届け出れば返ってくる可能性が高い。
デンマークのように「(見知らぬ相手も含めた)人への信頼」というよりも、「秩序だった社会への信用」と言うイメージです。

私の勝手な定義ですが、デンマーク社会に流れる「信頼」は、「人は善意を持った存在である」「人々は私の味方である」といった、見知らぬ人も含めた一緒に生きる人々を「仲間」と見なす考え方を指します。

余談ですが、以前日本人の知人とコペンハーゲンにあるカフェでランチをした際、知人が50クローネ(約850円)のおつりをもらっていない状況でレジを離れてしまい、後でそれに気が付いたことがありました。
レジに戻り、おつりをもらっていないことを伝えると、レジにいたスタッフが「本当に?」という確認した上で、「あなたを信じるわ」といっておつりを渡してくれたことがありました。
もしかすると日本であっても同じ対応をされるかも知れませんが(おそらく多くの国では無理だと思いますが)、「あなたを信じる」というまさに「信頼」を表す言葉が返ってきたのは、まさにデンマークならではだと感じたエピソードでした。

「人とのつながり」が心を溶かす

「信頼」に基づくデンマーク社会で暮らす中で、日本にはなかったもので日々身近に感じていたのが、「人とのつながり」です。

コペンハーゲンなどの都市部では多少異なるかも知れませんが、私の通う学校のある地域では、すれ違った相手が見ず知らずの人でも挨拶をするのがごく普通でしたし、目が合ったらそらすのではなく自然に微笑み合うのが日常でした。

『嫌われる勇気』に出てくる「共同体感覚」に近いものかも知れませんが、こういった積み重ねが、「自分はここに存在することを認められ、この社会の一員として生きているのだ」という実感が湧かせてくれました。

「自分はここにいてもいいのだ」という感情は思った以上に大きなもので、自分の存在を理由なく肯定することにつながります

また、「この社会の一員として生きている」という感情こそが、「人(仲間)に助けられ、人(仲間)を助ける」ことを歓迎する姿勢につながるのでしょう。
これは時に煩わしいですが、それ以上のメリットがあるように感じます。
「自分は一人で生きている」という危険な誤解をせずに済み、周りに感謝をしながら、そしてごく自然に困っている人に手を差し伸べながら生きられるようになりますし、「人を頼ってもいいのだ」という安心感は生きることをずっと簡単にしてくれます

デンマークの充実した福祉制度を支える要因の一つとして、人々が「自分の富を独り占めにせずに周囲と分かち合いたい」という精神が間違いなく挙げられるはずで、それはこの「(見知らぬ相手も含めた)人とのつながり」に拠るところが大きいのではないかと考えています。

自分はどんな生き方がしたいのか?

日本人として一定の知識を持った状態で日本社会で暮らしていると、人に頼らなくても自力でたいていの物事を片付けられますし、逆も然りです。

それは気楽で、煩わしさがなくて、自立しているようにも感じられることですが、同時にとても孤独で不安を覚えることも多い生き方ではないでしょうか。

近年、日本でも、一人暮らしするのと変わらない値段を払ってシェアハウスに住むことを選ぶ人や、ちょっとした趣味でつながるコミュニティに属す人が増えているようです。
その背景には、人と時間や場所をともにすることが、節約や人脈形成といった合理的な目的のためだけでなく、「人とのつながりから感じられる安心感や温もり」といったソフトな側面からも見直されるようになってきていることがあるのかも知れません。

何を優先するかは人それぞれですが、私のように「必要以上の人間関係は煩わしい」と感じている方は、「愛を配る」ことで得られる目に見えないメリットにも目を向け、できれば自ら体験してみることで、自分が本当に大切にしたいものが何なのかを考える機会を持ってみてもいいかも知れません。

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