「無駄な時間を楽しむことを自分に許す」2時間線を書き続けるVedic Artのクラスから見えた自分の壁

      2018/03/21

こんにちは、ERIです。

近年、マインドフルネスやヨガなど、目の前のものや取り組みに集中することの大切さが見直されるようになってきていますが、その理由を考えたことはありますか?

昨年の9月まで毎日忙しく働いていた頃の私は、ランチを食べながらPCをいじったり、人と話ながらメールを確認するなど、ある程度の余裕を持って一つのこと、目の前のことに向き合うことに罪悪感すら感じるマルチタスク信奉者でした。

とにかく早く結果を出す=生産性を上げることが何よりも大切で、それを妨げること、例えばゆっくりと何かを堪能したり、取り組みそのものを楽しむようなことは悪だと無意識的に捉えるようになっていた気がします。

そんな風にしているとサボらずに一生懸命生きている自分を肯定することができましたが、一方でランチは十分に味わうことができず、人の話は右から左に流してしまっている状態で、”今この瞬間”に身を半分しか置けていないような感覚もありました。

「こなす」が口癖だった頃の私は、振り返ってみると、感覚や感情を研ぎ澄ませた人間というよりも、何かを感情なく処理する機械のような状態だったように思います。

40年以上前にこの状況を予言していた人がいた

ドイツ人作家ミヒャエル・エンデ著の『モモ』を読んだことはありますか?

その中に道路掃除夫のベッポという人物が登場するのですが、以下のくだりが印象に残っています。

(以下引用)※打ち間違いがあった場合ご容赦ください
「とっても長い道路を受け持つことがよくあるんだ。恐ろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。」

「そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードをあげていく。ときどき目を上げてみるんだが、いつみてものこりの道路はちっともやっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息が切れて、動けなくなってしまう。こういうやりかたは、いかんのだ。」

「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな?つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひとはきのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」

「するとたのしくなってくる。これがだいじになんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃだめなんだ。」

「ひょっときがついたときには、一歩一歩すすんできた道路がぜんぶ終わっとる。どうやってやりとげたかは、じぶんでもわからん。これがだいじなんだ。」


先にあるゴールだけを見て突き進むと、途中で息切れしてしまう。

それよりも、目の前のプロセスを楽しみながら進めれば、長い目で見るとゴールまで早く辿り着くことができる。

1970年頃に出版されたこの作品は、まさに生産性向上を重視するあまり、取り組む過程そのものを楽しむことを忘れてしまいつつある近代化時代の人々に対する警鐘だったのでしょう。

「生産性up」以外の”純粋に楽しむ”ことを禁じる不文律

ネガティブな側面があるとは言えど、限られた時間の中で結果を出そうとしたら、「生産性向上」が問われるのは当然です。
日本だけでなく、欧米含めた先進国の大半が共有する価値観ではないかと思います。

ただ、私が個人的に感じるのは、日本には「生産性」以上に、”根性”や”忍耐”などの言葉にも垣間見える、「常に頑張り続けること」をよしとする文化があるということ。

「勤勉」「勤労」が日本を強くしてきたことは間違いありませんが、それが時に行きすぎて、「休むこと」「楽しむこと」がNGと見なされる局面があるように思います。

結果、無意識的に、必要以上に難しい顔をして真剣に物事に取り組んだり、(時にポーズも含め)サボらず一生懸命取り組んでいる姿勢を見せたりしている方も多いのではないでしょうか。

私自身について言えば、物心ついた頃、少なくとも小学校高学年の頃には、叱られることを嫌ってそれを避けるためにあらゆる努力をすることを習慣化していたのですが、その中でこの”サボらず楽しまずに頑張っているポーズ”を何重にも身に付けてしまった気がします。

フォルケホイスコーレでの生活

マインドフルネスについて学んだ際、一粒のレーズンを味わいきるだったり、朝の駅までの通勤経路を、踏み出す足や視界に飛び込んでくる風景に注意を向けて歩くといったインストラクションに出会いました。

デンマークに来てからは、毎日がその繰り返しです。

食事の時間に、場合によっては会話もなく、そしてもちろんスマホもなく、目の前の食べ物のみに向き合うというのはふた月前の私にとっては自分を持て余してしまう行為でした。

また、波音と鳥の鳴き声だけが響く静かな海辺を一人で散歩するのも、あまりに余裕がありすぎて落ち着かない気持ちにさせられる時間でした。

それに、今でも、1時間弱かけて行うヨガ+プラナヤマ+メディテーションに取り組んでいる最中にもどかしさを感じる瞬間が多くあります。

なぜなら、こんなのんびりとした目的のない時間は、何の目先の成果を生み出すことにも明確に寄与しない、「無駄」なものだからです。

こういった一見「無駄」な時間を忌むべきもの、なくすべきものと捉えていた頃の私は、おそろしく頭でっかちな人間でした。

インターネットや本やらでインプットは欠かさないものの、それを咀嚼して自分のものにし、本物の理解や経験を伴う言葉に落とし込むには至らず、他人の受け売りのそれっぽい言葉を繰り返しては空虚な気持ちになってばかりでした。

以前の記事で”mind”の構造を紹介しましたが、この頃の私は”thought”とその他3つ(”intellect”、”emotion”、”intuition”)がストレスにより完全に分断された状態になっていたのではないかと思います。

こちらに来て、目の前の頃に100%向き合うマインドフルな生活を始めると、少しずつ自分の感情や感性が目覚めるのが感じられるようになりました。

小さなことですが、素材の味を噛みしめるようになったことで、味付けの濃さを求めなくなったり、またアートクラスの影響もあってか、日常の中にさまざまな色を見つけて感動する機会も増えたように思います。

ヴェーディックアートの授業で感じた葛藤

そんな経験から、すっかり自分が日本にいた頃と別人になったかのように感じていたのですが、つい最近まだまだ道半ばであることを思い知らされるような出来事がありました。

今週、アートの先生が交代し、授業内容がポートレートやペインティング等の正統派アートからヴェーディックアートと呼ばれるものに変わりました。

元々私がこの学校でアートクラスを選択したのは、アートを通じてクリエイティビティを再発見する、言うならばヴェーディックアートを経験するため(以前の記事参照)でした。

ですが、ひと月強に渡り、正統派アートを予想以上に楽しんだことやその中で意外にも先生や周りの生徒たちに自分のアートセンスを褒めてもらう機会が多かったこともあり、ヴェーディックアートのクラスが始まった日、全く心躍っていない自分がいました。

正統派アートのクラスでは、初回の授業から他の生徒のポートレートをチャコールで描くというチャレンジングな(自分の頑張りを問われるような)ミッションが課されたのですが、ヴェーディックアートのクラスで課されたのは、「紙を何枚使ってもいいので、2時間ひたすら線(line)を描き続ける」こと。

A4サイズの白い紙の束と鉛筆が渡され、”Draw lines.”と言われた後は、互いのアウトプットにコメントし合うことも禁じられ、2時間が過ぎていきました。

線の嵐

正統派アートのクラスではまるで一瞬のように感じられた午前中の2時間が、このヴェーディックアートのクラスでは永遠のように長い時間に感じられ、目の前にある紙の山を使い切ることだけを考え、怒りにも似た感情を覚えながら線を描き殴り続けました。

翌日クラスに行くと、何とその日のミッションも「線を描き続けること」。細かいルールは変わるのですが、基本的にやることは変わりません。

この日はもはや怒りの感情すらなく、機械的に紙を線で埋め尽くして過ごしました。後から自分のアウトプットを見返しても、どの紙もほぼ同じような真っ黒なかたまりで埋め尽くされています。

目的も目標も説明されないまま、そして自分でもそれらを見い出せないまま単純な取り組みを続けるのは、時間を無駄にしているように感じられてならず、そこにやるせなさを感じていました。

 

その後、モヤモヤした想いを抱えてアートクラスのメンバーたちと感想を共有したのですが、驚いたことに、その場にいた5人のうち、「つまらない」という感想を持っていたのは私だけだったのです。

「感情が溢れ出してきて涙が止まらなくなった」(70歳・デンマーク人)
「意味もなく笑いが込み上げてきてどうしようもなくなった」(40歳・デンマーク人)
「子どもの頃にお絵かきを楽しんでいた時のように、純粋に色々な種類の線を描くことを楽しんでいる」(20歳・ハンガリー人)
「音楽を聴きながら線を描くと毎回全然違うアウトプットになって面白い。この後アートの大学にアプライしようと思っているけれど、そこに提出する作品のインスピレーションが得られた」(20歳・ハンガリー人)

これらしたもの以上に印象的だったのは、50代のデンマーク人の生徒が放った、「私は”無駄な時間”を満喫して、自分自身を楽しませるためにこのクラスにいるの」という言葉。


「無駄な時間を満喫するというのはどういうことなんだろう…」

その後彼らとのやりとりを振り返る中で、もしかするとヴェーディックアートのクラスを楽しめていないのは、私が「目的やゴール達成にフォーカスするあまり、本来は楽しめるはずの取り組み過程を楽しむことを自分に許せていない」ことが原因なのではないかと考えるに至りました。

「あなたはもっと楽しめるはず」

子ども時代を振り返ると、何の目的もないのんびりした時間を愛するどこか抜けたところのある性格だったように思います。

そして一年半ほど前に出会ったデンマークの”hygge”というコンセプトに惹かれたのも、大人になってからも変わらず私の中には「”無駄な時間”を満喫する」ことを愛する心がたしかに存在し続けていたからなのでしょう。

それでも、社会人になって生産性や自己成長を強く意識し始めてからは、家族や友達とのんびりと他愛もない話を過ごして過ごした後やボーッとしながらくつろいだ後、「時間を無駄にしてしまった」と罪悪感に駆られるようになりました。

先日、上記ハンガリー人の生徒とヨーロッパと日本の文化について話していた時、「あなたはもっと楽しめるはず」という言葉を掛けられました。

「え?もう十分楽しんでるよ?」と返したのですが、いつになく押しの強い感じで繰り返し「あなたならもっとできるはず」と言われました。

真意は確かめなかったのですが、彼女のこの言葉は、もしかすると「もっと自分にのんびりしたり楽しむことを許可してもいいんだよ」という意味だったのではないかと捉え始めています。

 

日本にいた頃、知識的な成長はあれど、自身の人間的な成長を感じる瞬間は稀でした。
こちらに来て2ヶ月が経った今、日々自分の人生をもっと輝かせるためのヒントがそこら中に転がっていることに驚かされてばかりです。

ヒントやきっかけなんていうものは、本当はいくらでもあって、自分自身が許可する(気付き、本当の意味で受け入れる)ことさえできれば、少しずつでも変化は起こっていくのではないかと感じます。

”無駄な時間”を愛してみる

何かを「こなして」いる時、私たちの感情や感性はアイドリング状態になっています。
まったく同じことを、フルアテンションで楽しんで行えば、そこには必ず何らかの心の動きが伴います。

その心の動きがポジティブなものとは限らないけれど、それでもどちらが楽しいのかは明らかで、どうせ同じことをやるならば楽しみたい。

残り1.5ヶ月の留学生活の中でどこまで自分が変化できるかは分からないけれど、過去の自分の習慣に一旦終止符を打って、「”無駄な時間”を満喫する」ことを自分に許可してみようと思います。

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